書けたら書く日記

書けたら書きます

山田氏との日々

最後にこのブログを更新してから、もうすぐ1年が経とうとしている。

 

直前の記事で私は、意中の山田氏という男性に告白を決意している。

結果的にいうと、この後2017年の11月に私はようやく彼に手紙で告白し、ラインでOKの返事をいただき、晴れて交際が始まり、おおよそ週一回の電話と、月一回のデートを続け、現在に至る。

 

山田氏は、噛めば噛むほど味が出る、スルメのような人だと思う。会うたびに新しい発見があって、いつも新鮮な気持ちで向き合うことができる。遠距離ということも相まって、毎回のデートに対するわたしの期待値はどえらいことになっている。

 

ぶち上がった期待値を、山田氏はいい意味で裏切ってくれている気がする。甘いムードが入り込む隙間など一切ない、ストイックなジョークの応酬。それに応えようと、わたしの脳は常にフル回転。でも、不思議と不快感はなく、別れたあとはいつも爽やかな疲労感で満たされている。頭のいい人と会話をすると、きちんと脳が機能しているような感覚がある。会話とは、ある種スポーツなのだと思う。山田氏との会話は、わたしにとってほんの少しだけハードなトレーニングみたいなもので、ちょっと頑張ることで確実に達成感を味わうことができる。

 

わたしにとっては非常にエキサイティングな山田氏との会話だが、彼にとっては一体どのように位置付けられているのだろう。わたしの無知さや、あるいは突飛な考え・感覚を、ある程度は面白がってくれているようだが、ともすれば軽蔑されてしまうのではないか、との不安もある。まあおそらく、そんなことはあまり気にせず、お互いに好きなことを言い合っているぐらいがちょうどいいのだろう。

 

彼は私に対して、良くも悪くも要求してこない。ああしてほしい、これは嫌、などと言われたことは一度もない。私も同様に、彼に対して要求したことは多分一度もないと思う。要求したことはないが、希望する機会は多い。要求と希望の違い、それは、動作の主体にあると考える。要求の場合、相手に〇〇してほしい、というように、動作の主体は相手である。希望の場合、自分は〇〇したい、というように、動作の主体は自分自身である。私と彼は、お互いに「要求」ではなく「希望」を伝えるように自然と心がけることができているのかもしれない。彼に関しては、希望すらほぼ無く、いつも私の希望を承諾するばかりである。果たして彼はそれで満足できているのだろうか?まあたぶん、できているのだろう。私と過ごしている間は、私と一緒に時間を過ごすだけでオッケーなのだ。と書くと、むちゃくちゃ溺愛されているみたいだが、残念ながらそうではない。「私と過ごす時間」は、どこかに行ったり何かを見たり、と言った具体的なタスクを達成するための時間では無く、ただただ二人で一緒にいることこそが最大のタスクなのである。私とのデートは、おそらく彼の中ではこんな風に位置付けられているように思う。もっと前のめりでプランを提案して!エスコートして!なんて、一ミリも思ったことはない、と言うと嘘になるが、ほとんど無いと思う。なぜなら、私も彼と同じ感覚だから。とりあえず二人で一緒にいられたらそれでええわな、と思えるのである。お互いのありのままを受け入れているので、とにかく相手に対するハードルが低く、ユルユルな私たちである。

 

いわゆる遠距離恋愛を続ける私たちだが、安定感のある関係を維持できているように思う。だいたいいつも、私がかまってちゃん状態になり、もっと連絡ちょうだいおばさんと化すのだが、それを受け流す彼のテクニックはなかなかのものである。テクニックなんて大袈裟な表現をしたが、要するに無視である。自分の気分が乗らないときは応答しない。ただそれだけなのだが、その徹底ぶりがすごい。応じたくない時は、絶対に応じないのだ。そんな彼のゴーイングマイウェイっぷりに当初は動揺したが、時間が経つとさすがに慣れてきて、ああ、今はあかんねんな、と潔く諦められるようになった。逆に、応じてくれる時は一応大丈夫なのだ、と思えるのでわかりやすい。無理をしないでいてくれることは、本当にありがたい。変な気をつかう必要が無いので、ストレスフリーだ。俺はやりたいようにやる、だから君もやりたいようにやってくれ、ということなのである。ということで、私は既読だろうが未読だろうがお構いなしに、自分が送りたい時にラインを送り、かけたい時に電話をかける(常識の範囲内で)。それに対して彼は、自分が返したい時だけ返信し、可能な時だけ電話に出る。お互いやりたいようにやっている。それが私たちの円満の秘訣である。